高校生のための哲学入門1

結局、理性は、バカラ賭博、ポーカー、コンピュータゲームで活用されていて、低所得者は、低所得者なりに理性を使っているということである。

推論能力のことを言うから。

 

それで、ゲーム的理性が人間に備わっているのは確かだ。どこの文化圏でも、賭博はあるから。

 

それで、ゲーム的理性はエンドレスに続いていく。チェスやバカラやポーカーは、その登場人物を数世代にわたって変えても、やることは同じだ。

 

理性の根拠はない、としたのがカントの最大の発見であったが、そもそもゲームに根拠はない。ゲームをやっている人がお互いに了解すれば、それで成立する。

 

そして、ゲームをやっているだけでは、何一つ前に進まない。理性は、そんなに役に立つものでもなかった、それが20世紀の発見だろう。スキャンダルでもある。

 

アリストテレス以来、2千数百年にわたり、「理性」の優位が、まさに科学技術文明を作ったわけだが、そもそもの出自はたいしたものではなかった。

 

ガチャぽんだからね。麻雀卓だから。そして、人間(個人)と独立して麻雀卓は成立するわけで、麻雀卓とはいったいなんだろう?、という問いになる。

 

株式投資でもなんでもいいんだけどね。順列組み合わせと確率である。そして、その適用である。そこまでは高校生で習った。成績はひどいものだったが。

 

そういうベイズ確率的理性というのは、順列組み合わせが無限にあるわけだから、エンドレスに計算し、ベットし、配当や損失が出る。「理性」を使うから、報酬が高いわけだ。

 

つまり、「博打で勝てる確率の高いやつ」が金を総取りする、古来からある無尽講と同じ仕組みだ。人類の起源と同じくらい古いと思う。

 

では、その確率的理性とはいったい何か?世代を超えて、人類発祥以来つながっている、その仕組みはわかったが、いったい何なのか?

 

一つは、宗教の出自と関係がある。寺銭とって、博打打ちの会場がある。神社仏閣の収入源だった。そこにヤクザが絡む。そして出店がでる。ものが交換される。塩とか醤油とか、必要なものも市にでるが、そうでもないものも市にでる。それで生産活動が活発になる。経済の出自も宗教であったが、ゲーム的理性はことのはじめから関わっている。

 

そこに思索で降りていく、というより、歴史的事実を丹念にレビューした方がいいのだろう。古代エジプトの王が何かのゲームのためにピラミッドを作ったはずだ。それは失われて動機はわからない。まさに、理性の最初の例だから、理性が独立するには、なにか理由があるはずで、そうでないとあのような浪費は正当化されない。

 

理性に対立するのが「現実」だ。賭博場を去って、すかんぴんになれば、明日から工事現場でまた働かなければならない。そういう現実だ。それは絶対の法則で、人間を支配する。現実原理とは、ただ単に現実があるということだ。理性によって、ゲームによって、変えられるものではない。

 

私も現実にいて現実と向き合った限りにおいて、「人として労働の対価」を得ていた。それは正当な報酬である。それだけが人を正気にする。理性によって、人は狂うのだ。