高校生のための哲学入門2

それで、博打打ちは理性的だというお話しだった。

 

さて、現実に適用される理性はどうであろうか。

 

理性がそのまま適用されれば、弁護士の準備書面のようになる。記号論理の組み合わせだ。そして、法廷でゲームを行う。

国であれば、予算というゲームで、支出が決定され、その配分をもとに仕事が行われる。まさに、論理の組み合わせの争いであり、民主主義によって、なんでもありだが、選挙というルールだけは守るようになっている。

予算というゲームがあれば、仕様も自動的に決定される。貧乏な方はそれなりに、お金持ちの方もそれなりに。ものが配分される。

 

さて、理性の働きは、ここで位相転換をする。貧乏な方にそれなりに、お金持ちの方にそれなりに配分されたものは、個人の自由処分であって、その選択は個人の美意識に依る。

 

理性が美意識に従属するというか、美意識が理性の別の働き方なのだ。質的に違う。論理の組み合わせであるが、何を選ぶかは美意識が決める。そこで、「個人」が成立する。

 

そして、美意識は、理性に起源がありながらも、また独立の能力である。美意識にとって、無限の組み合わせの中の一種類のみを選ぶわけだ。その根拠は快不快である。

 

動物的本能による選択であるし、欲望による選択である。そこに、理屈はない。美意識は論理的に記述されうるが、他のあり方でも同様に論理的に記述しうるわけで、そのあり方が選ばれ、系列となり、個人の生活となるのは、行動の選択による。案外であるが、美意識の方が生活実感と現実に近いのだ。

 

そして、美意識において純粋な論理学は姿を消し、自然言語による集団文化の圧力が強くなる。集団的歴史的選択が美意識の最大公約数であろう。それが奇妙であっても、「美意識の論理学」はあるのだ。ただし、他の選択を排除するものでもある。しかし、変化するものでもある。集団全体をみたとき、選択は時系列で変化していくから。

 

美意識において、「美のための美」である芸術家と、「生活のための美」である一般者が分離する。そもそも、仏教が外来宗教であるから、日本においては、仏閣と住宅の間にだんだんと齟齬が生じて、「宗教美」と「生活美」が完全に分離した。仏教がダイナミズムを得ていた頃は、それ相応に「下に流れる」形で、住宅も倣っていた。

 

「生活のための美」とは個人の趣向の表明の集合量であり、また、集合量が個人の趣向を定義するような循環的な関係にある。言語によって規定されるのがまさに「文化」であるから。

 

その意味で、「常識」の生成とよく似ている。いかに単独者に見えても、美意識は「常識」に回帰する。NHK日曜美術館やら百年名家などの媒体で薄まり広がる。

 

「美意識」とはまことに身勝手で好きに動き、忘却し、前へ進む。後理屈で、そこに理性が働いていたかのようにも構成できるが、実際は、日々の生活の選択によって成立する。

 

その総体が日本である。まことに、「美意識」によって成立する国、特異な東洋の島国である。

 

しかし、現実は進行している。静かに深く、社会を変え、モノの選択肢を変えていく。そもそも、アメリカがなければ、まだ電電公社は黒電話を配給していただろう。しかし、ものが提供されれば、社会もそれにつれて動く。不可避で絶対的な変化だ。それは「美意識」の変化を越えていて、「美意識」が後追いするのだ。

 

そこに理屈はないのだが、後付けで必然の「歴史」が語られ、論理的組み合わせはそうでしかあり得なかったように語られる。実際、理性の最後の意地である。

 

ものが世界を変える、それを理性は認めたくないのだ。しかし、変わってしまう。そこで適応するために、「後付け」で理性が働く。モノの組み合わせをどうすれば最適になるか考えるわけだ。そして、その範囲では有効であり、まさに現実であろうと思う。

 

理性というのは案外頑固なもので、ルールチェンジを嫌う。しかし、ルールが変わったことは認識して、変えていく。

 

そういう重層的な営みが、人間の生きるということだろう。