故安倍氏の現時点での個人的評価

安倍氏の記名のある「自著」には、浅薄な日本すばらしい論しか書いていない。思想性で権力を握った安倍氏であるが、その内実、思想というものはない。
条件反射の他者攻撃、弱い相手に強い、それだけの人にしか見えなかった。悪辣な権力操作は菅氏主導で行ったもので、権力操作の達人というわけでもない。
種々の問題への対応ぶりが権力的手法を使ったとは言えるだろうが、泥縄にしか見えなかった。
外交上の評価が高いのは、外交好きで、プレゼンスを落した日本の立場を主張し続けるというしつこさはあった。外交とは半分の成果は人と会うこと自体にある以上、少なくとも半分は評価されるべきだろう。習近平がひきこもりなので、各国めぐる安倍氏は、内心どうあれ、話ができる指導者ということで信頼はあったと思う。
 
頭のいい人とはとても思わなかったが、単純な信念を大声で繰り返し述べるという意味では成功したのだろう。日本を改造して近代化するという明治以来の課題は無視したと評価できる。現状維持が最大目標で、その実、何も進展していない。政策面での評価といえば、微調整に官邸が介入する機会が増えたが、エネルギー政策にしても安保政策にしても従来どおりの延長でしかなかった。経済政策のセンスは民主党よりはよほどマシであるし、株高をもたらしたのだから、それは麻生財務大臣の功績だとは思うが、安倍氏の名前に帰せられてもいいのではないか。現状維持で利益をインナーサークルで分け合うという途上国型政治で、大目標を掲げた、「坂の上の雲」を目指した時代の高齢者には不満があろうが、インナーサークルに入れると錯覚させることで国民の4割の支持を受けた。投票しない6割は切り捨てて、政治センスとしては、途上国型として優秀であっただろう。
 
安倍時代とは、先進国から途上国へと、現状維持を続けるなら不可避の道を舗装したということである。円安とウクライナ景気で輸出産業は復活したみたいだが、もはや日本人の雇用が増えることはない。切り捨てられれば、それはそれで一つの方法だと思うが、切り捨てようがないのが、国というものであって、その課題は次代に残された。
 
結局、目標なき現状維持の肯定を暗黙の了解として権力を掌握した発展途上国型政治家として後世に評価をゆだねる形となった。日本の衰退を止めるという発想自体が退嬰的であろうとは私個人としては思う。

哲学導入

哲学について少しお話しいたします。

まず、哲学者の主観は正しい、というのが、その学問の限界で、言いっぱなしという本来的な限界はあります。

いかに高度でも、私はこう思ったから、世界はこうなっているというかなり身勝手な理屈です。そうはなっていない。ガリレオ・ガリレイアリストテレスの天動説に反旗を翻したのは、まさにそれが理由です。

デカルトは、座標系を導入し、合理的な推論の規則に則れば、この世のすべては解明されると言いました。その根拠は、「自分がこう思ったから」しかないので、「神の存在証明」を持ち出しました。私はこんなに合理的に考えているのは、神が世界を合理的に作ったからだ、という変な論理です。神もいい加減にしろと言うでしょう。このロジックは、逆に言えば、何の根拠もない哲学という学問の限界を示しています。実際、大学で教養程度の物理を習えば、座標系の限界というのは勉強するわけですね。

カントは、「単なる主観における単なる規則」を解明しました。論理上、誤りがでるはずのないものですが、「単なる主観」というのは、言い換えれば「私がこう思ったから世界はこのように現象する」ということで、「私がこう思ったから世界はこうなっている」の別バージョンです。

この独我論の問題は、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で極致に達して、その人本人により捨てられます。

それで、共同主観的な構造へと、社会学化へと知が変動するわけです。共同主観性なしには、要するに常識なしには、自分の知っていることすら明らかにならない、という反省がありました。

哲学は、世界構築的ですから、「比喩」としては、今でも使われます。自分の世界がどうなっているのかを説明するときに使われる。今の文明は、哲学的構築によってはできていないので、せいぜい文化的な発想の「比喩」として用いられます。ベルグソンが自覚的にそういうことをやった初めの一人だと思います。ニーチェを先駆者だとする見方もありますが、彼は「比喩」を生きたので、客観的な便方として使うには至っていません。

さて、古文書であるアリストテレスの時代にあった精神性の高さは、近代哲学には望むべくもありません。わずかに、「論理哲学論考」がその名に値するぐらいです。

終わった学問としての哲学については、いろいろ論点はたくさんあるのですが、紹介としては、これでとりあえず講義終了といたしたいです。

カント 視霊者の夢(講談社学術文庫)書評

https://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2013/09/post_363.html

 

カントで、読むべき本は、実はこの一冊だけかなとも言えるね。

 

占い師スウェーデンボルグを徹底的にこきおろし、事実関係を丹念に調査して、ウソを暴くという無駄な労力を大真面目に緻密にやっていて、なんか、そんなのお話しだろ、っていうのを「ファクトチェック」するあたり、陰湿で感じ悪いと思う。

 

純粋に本としては面白い。

 

要点、スピリチュアルは何の根拠にもならないとだけ言っているのだが、それはそのとおりなのだが、陰湿で強迫神経症的な追い詰め方がドイツ人の粘着性を示していて、本人に問い合わせまでするという失礼なことまでやっている。

 

粘着質ですねえ。ま、ウクライナ戦争を機に、ところどころ読んだクラウセビッツの「戦争論」を読み返そうとしたら、あの刑法の抽象化みたいなことが延々と続いていて、やめました。粘着質なんですよ、ベルリンは。

哲学に対する疑問と回答

確かに、文章読解力のある理系の人にカント、ハイデガーを読ませれば、「自意識という名前の雑多なでたらめの印象がパテで塗り固められたモックアップ、いろんな元型からパーツを寄せ集めたプラモデル」という酷評になるであろう。

 

論理的に考えれば、確かにそうなる。まったく正しい読解だ。

 

反論ではないのだが、しかし「私はすでに超越している」というのが自意識の本質と定義すれば、やはりカント、ハイデッガーは一つの考え方としてアリなのではないか。

 

その自意識を解剖学的に観察するというアプローチが哲学なのだと思うし、一般性は何もないと思う。そして、自意識というのは、解剖され器官が明らかになり、白日のもとにさらされるが、自意識そのものには何も触れていない。生き物だからね、自意識は。

 

そっちの深みに入り込むとニーチェのアクロバティックな解釈だとか、アウグスティヌス読解だとか、沼に入り込む。それもいい趣味だとは思うけれど、そんなに人生、時間があるわけではない。

 

だから、僕の結論は、謎として自意識というのは残されている。謎のままでいいのだろう、という折衷案だ。デカルトも常識でほぼすべては片が付くと言っているし、常識を逸脱しない範囲で自意識があれば、さして問題は起きない。

プーチンの化石的大スラブ主義

それでプーチンの発想を解説してみよう。

 

19世紀には、大スラブ主義というのがあった。共産主義が抑圧したのだけれど、本音はこれであった。

そして、プーチンが、ネトウヨ、仮想戦記、低所得者の「保守本」とか、そういうものの「怨念」の噴出に「なにやってんだ、GOOGLEにアマゾンにスマホでなんでもできるし、国境が無くなっているのに頭悪いの?」とドン引きです。

 

大スラブ主義とは、「ロシアの大地から生まれる生命の無限の流出が、有機体としてのロシア民族を作り上げ、それは象徴秩序としてのロシア教会に体現される。その神の恩寵としての、ロシアの大地、生命、有機体の結節点として、象徴秩序たるロシア教会から天の采配で選ばれし者がロシア皇帝である」という古臭いポンコツで、19世紀にはそれでよかったのだが、核兵器を持った国、それも自動報復システムを持った国が、いまどき、2022年にこんな戦争をやる動機にされたのでは、迷惑です。

 

この論理構造で失敗したのは、ナチスが明示的で、大日本帝国が自覚なき宣伝で自己洗脳されて、大失敗をやらかした。

大日本帝国イデオロギーが、その国家的な現実を失って、漂流して、仮想戦記だとか変なHANADAだとかに残留思念としてのことっているけれど、こんなもん、まともな職業を持っている人間が口にできるものじゃない程度には文明化されている。

 

あとは、島国性の問題とか、前例踏襲という名の江戸時代の名残(実は1920年代に始まった工業化のプロセス)、そういう低生産性が日本の課題だけど、逆に言えば、壮大な生命と有機体を象徴秩序でまとめあげ、その「象徴」として神の恩寵たる天皇があるというようなことは、本音では右翼団体でさえ思っていない。脅しに使っているだけだ。

 

プーチンの発想が、アメリカ、イギリスが1920年代に消費社会になって、また異民族を含む帝国として「市民的アイデンティティ」を得たのに対して、プーチンの1890年代くらいの古代遺跡みたいな理屈というのは、誰も(先進国の)に理解不能だし、まして、侵略戦争を正当化するものではない。

 

蘊蓄です。修正公開

Problem of the ‘Author’ - application of Jacque Lacan’s “schema” to a tryout literature analysis

Lacan’s thesis “Schema S-A, a-a’ “, in other words, unconsciousness has already been
determined by language, that is covered by ordinary consciousness and never system. For unusual such a case as schizophrenia shows that unconscious language is to be revealed,unconsciousness shall appear as a symptom of brain malfunction. We never know the “Reality”, what nerve system constructs.
Now, turn to the application to literature. Literature appears from phenomenologically point of view to be sets of conditional branches. Such as storytelling is usually to be logically and consistently built, etc. No one can understand inconsistency and illogical story, if so, goes to mess. Officially, in common, such a pulp should be excluded as a delusion.
Yes, that is absolutely accepted in scope of literature definition. Exceptionally accepted cases still exist. That shows “existential investigation” can be admitted as a manner of literature try out. “For ‘a writer’, the most important thing is ‘writing itself,’ not the content.” according to a famous sarcasm, Derrida, Barthes, Foucault, etc. My argument is far from sophisticated nonsense disguise such as “texture of literature”, even if I still admit Barthes personally.
Unconsciousness shall be free from logically consistency and be full of profound image series like dream. Dream is ordinally inconsistent and illogical, and that is harmless and immediately forgettable. But some text shows that bad dream exists as reality. Unconsciousness appears directly to the surface consciousness covered by language.
Turning to the thesis, I ask if the bad dream can make reality by awesome image series which seem to be baroque construction of psychoanalytic misinformation. In truth, I admit that such kind of literature is inevitably is attracting us, and no one can avert his eyes. Edgar Allan Poe starts this kind. In other words, no work is attracting us unless that implies essentially factor of dream. My thesis goes to show outlook and investigate to Franz Kafka’s works.
“Verwandlung”, in short, the man wakes up and find him a worm. That is all.
Phenomenologically, two point of view are congested. Self-consciousness belongs assertively to the human being and the storyteller crudely describe him as a worm.
Telling the truth, inconsistency of “Verwandlung” are pointed out. In reality, no worm
appears after carefully reading in detail, assessed in terms of bad taste harassment for readers, nasty worst joke for Flaubert’s works. Yes, those sarcasms are in terms of literature analysis
all true. I have already known that.
I am not such a person as naïve to believe this kind of existential experience.
In short, the author exits along his texting lines. If making this kind of story in flat tone
reasoning and proving the evidence, that is psychologically interesting. Indeed, his text is
mixed with contradicting viewpoint simultaneously. The author, narrator, the actor, named as Samsa are the same person. No distinction exists. Literally, that is horrible. Not the content, the mixing of three point of view makes bad dream image series to reality, so to say, complex labyrinth.
Concerning delusion, narrator and actor are completely different state of mind even for
schizophrenia. But Kafka is Gregor Samsa, narrator, and the Author are coexisting and
changing their roles consistently and simultaneously. Kafka makes himself as 3 roles, perhaps more. That is awful. And the unconsciousness and the consciousness seem to be appearing simultaneously. The Author are supervising the situation and always are there in this text. I recall that, according to Lacan’s schema,” S” cannot be appeared and is only observed as a symptom, so that my question goes to the psychoanalysis area in which simultaneously coexisting unconscious bad dream and mind state of reason can be. That is impossible for Lacan’s theory. But Kafka apparently made it by consistent story and the author seems to be controlling all things. That means reason and dream can coexist.
In short, Kafka shows that his works, ”Das schloss” or “Verwandlung”, etc., makes bad dream come to reality. I think that consistency is sticked with the author’s Ego. The Ego may be originally different from function of unconsciousness and consciousness. I am just pointing out that the “author” is mysterious existence, Ego itself. Myths belong to the author’s name and contribute every impression to the “author’s private story”. But “the Author”, Ego, is thinkable as coworking with language activity mixed with actors and narrators but Ego function is independently working in and along his text. That is my short conclusion.
Thank you for reading,

創造性と引き換えに

端的に言えば、外国語ができるから。

 

英語のモノは英語でそのまま受け取って返してしまう。ドイツ語も同じ。そして、それは正しい。

 

日本語にする必要がないから、内面化していない。内面化のプロセスがないと、「外人」と変わらない。ただの「外人」なだけ。

 

内面化するときの葛藤と屈折と創造の喜びが全く無い。フランス語は「できないから」翻訳せざるを得ないので、少しは、「内面化」している。

 

逆説である。知能程度が高いと、返しがすぐにできてしまうから、創造性はいらない。理解しているのだから、理屈はいらない。日本語に翻訳する必要がないのだから翻訳しない。

 

たぶん、言語ができる人の特徴で、なんでわざわざ翻訳しなければならないのか、と意味がわからない。「外人」基準だから、それで通してしまう。

「外人基準」を身につけると、だから面白くない世界が待っている。内面化こそ創造の源泉であるから、それがないので、できない。

 

知能程度が高いと、創造性がなくなる、そういういいわけにはなる。わかっているし、返せるのだから、それ以上何が必要なのか。