哲学導入

哲学について少しお話しいたします。

まず、哲学者の主観は正しい、というのが、その学問の限界で、言いっぱなしという本来的な限界はあります。

いかに高度でも、私はこう思ったから、世界はこうなっているというかなり身勝手な理屈です。そうはなっていない。ガリレオ・ガリレイアリストテレスの天動説に反旗を翻したのは、まさにそれが理由です。

デカルトは、座標系を導入し、合理的な推論の規則に則れば、この世のすべては解明されると言いました。その根拠は、「自分がこう思ったから」しかないので、「神の存在証明」を持ち出しました。私はこんなに合理的に考えているのは、神が世界を合理的に作ったからだ、という変な論理です。神もいい加減にしろと言うでしょう。このロジックは、逆に言えば、何の根拠もない哲学という学問の限界を示しています。実際、大学で教養程度の物理を習えば、座標系の限界というのは勉強するわけですね。

カントは、「単なる主観における単なる規則」を解明しました。論理上、誤りがでるはずのないものですが、「単なる主観」というのは、言い換えれば「私がこう思ったから世界はこのように現象する」ということで、「私がこう思ったから世界はこうなっている」の別バージョンです。

この独我論の問題は、ヴィトゲンシュタインの「論理哲学論考」で極致に達して、その人本人により捨てられます。

それで、共同主観的な構造へと、社会学化へと知が変動するわけです。共同主観性なしには、要するに常識なしには、自分の知っていることすら明らかにならない、という反省がありました。

哲学は、世界構築的ですから、「比喩」としては、今でも使われます。自分の世界がどうなっているのかを説明するときに使われる。今の文明は、哲学的構築によってはできていないので、せいぜい文化的な発想の「比喩」として用いられます。ベルグソンが自覚的にそういうことをやった初めの一人だと思います。ニーチェを先駆者だとする見方もありますが、彼は「比喩」を生きたので、客観的な便方として使うには至っていません。

さて、古文書であるアリストテレスの時代にあった精神性の高さは、近代哲学には望むべくもありません。わずかに、「論理哲学論考」がその名に値するぐらいです。

終わった学問としての哲学については、いろいろ論点はたくさんあるのですが、紹介としては、これでとりあえず講義終了といたしたいです。