近代哲学における「理性」概念のレビュー(準備)

理性では神に至ることも、事象(生命、自我)そのものへ至ることも不可能であり、表象の中に浮いているだけだとカントは証明してしまった。観念とは思惟であり、現実とは現実であるという二分論の徹底で、思惟は独立したが、無限に展開することもできるが、ついにどこにも至らず、ただ思惟自身のみを根拠とするだけになってしまった。

ベルグソンは、カント哲学の「乗り越え」を試みて、「生命」の現れを理性として、「進化」の中に位置付け、思惟によって「創造的進化」をすることで、「種」として限界を突破するというモメンタムを見出したが、いかにもテキトウ感漂う。

ハイデガーは「思惟」も存在者であり、自分という存在であるから、中間的な「現存在」を想定し、存在を明らかにするのは、思惟ではなく、自分という存在が他の存在の中にあることであり、沈思黙考により自ずから明らかになる「存在」を詩的感受性により体得するという「存在神秘」の哲学となった。要するに宗教である。

問題は、思惟だけ考えれば、ポーカーゲームと同じで、エンドレスにできるが、ゲームを降りられない。自分がポーカーをするという存在論的位相転換をしても、結局は、デカルトの「我思う故に我あり」の循環論法で、思惟が独立して空転してしまう。思惟は、対象を分析し、分類し、実験し、解析することを永久に望むことになってしまった。無限のポーカーゲムから降りられない。それが近代人の「GESTELLEN」である。あらかじめ理性を用意され、理性を行使し、存在を忘却し、存在者を構築していく。

さて、フーコーである。フーコーは、19世紀後半になって忘却された存在が、労働・生命・言語という三角形の配置でGESTELLENされていると考えた。その中心に不透明な「存在」としての人間が露わになる。まるでハイデッガーの物言いである。「言葉ともの」は、「存在と時間」の注釈書、あるいは「純粋理性批判」の解説書として読める。

 逆にいえば、古典哲学最後の花火であり、理性のモメンタムが結局、人間それ自身に向かうという見取り図を描いた。そして、人間それ自身には至らぬことも暗黙に示している。

 そして、「海岸に描いた砂の上の絵のごとく、人間は消え去る」と予言した。ある意味、バイオポリティクスによって、人間は消滅したとも言える。しかし、従来の理性概念を採用するのであれば、という限定付きである。

 私が考えるに、理性はそもそも論理ではない。理性は常識から分離していない。理性とは言語であり、言語そのものが循環的定義をするもので常に更新されているから、理性も漸進的に変わるという保守思想である。ハイデガーの指摘はそのとおりなのだが、そもそも言語は共同体的であり、理性は共同体的に決めなければならない。それが20世紀の発見であった。