割り切れぬものを割り切る。

ねぷた祭り」と私が自分自信を揶揄するときに使う言葉ある。所詮、おまえの文化人気取りは「ねぷた祭り」に過ぎないのだろうと。

 

それは、最初から、ことのはじめから認めている。吹っ切れている。「生命の論理」がテーマだから。そして、「生命の論理」は、必然的に抑圧的で保守的でフェティッシュなものになるだろう。別のことばをあてれば、「物欲の世界観」だから。生命的論理がないものを嫌う。生命の必然がないものを忌避する、罵倒する。そのとき、生命の枠内で自分を正当化する。

私が成金趣味に関心があり、ガチャガチャした芸能人の世界に興味があり、「宮崎駿文化圏」なのは、パンピーだから、というのもあるけれど、そもそもパンピーしかいないだろう、おまえら、そういう意識からだ。芸大には尖ったセンスの人がいるのかもしれない。マイナーなテクノを突き詰めている人がいるのかもしれない。それはそれで素晴らしいと認めるし、ちょっとは解説もしてみせるけれど、あくまで本流はパンピーの生命力肯定である。自民党、祭り、土建屋、ラーメン屋、そういうものは肯定している。抽象論理で、これはこうだと決めつけるのが無意味であり、また、相当でもないと分かっている。

 

生命的論理と矛盾するのが賭博資本主義である。実は、賭博も生命的論理から派生したものだが、自律して経済システムを動かす。経済の論理が、生命の論理を越えている。日本が貧しかった頃、それは、明治開国以来100年貧しかったわけだけど、生命的論理の中に資本主義はあった。だから、太平洋戦争までやったのだ。零戦を作ったのだ。そして、生命的論理は破綻する。

 

アメリカ文明という生命の必然性に反した国家にどうしても負けるわけだ。論理だけで国を作って、動かしているから。中身は、また、論理の建前からの揺り戻しは常にあるけれど、月着陸船まで作ってしまった。アメリカにはどうしても敵わない。それは、賭博資本主義の論理をついに持てなかった日本という膠着語の桎梏が原因であろう。個人的には、それで何も問題ないと思うのだが、経済の原則は日本を敗者にしてしまった。要するに、システムとルールと資本の論理は、空中に浮いた抽象概念である。そこに賭けることがどうしてもできなかった。

 

生命の論理があるから、天皇制の国なのだ。そして、天皇制がある以上、近代化はそこでストップされる。そして、近代化の理想は、ある意味達成され、ある意味、日本によって歪められ、「ねぷた祭り」の変種を大量に生み出した。ゲーム、アニメ、漫画、アイドル、JPOP、ゴミクズ、ガラクタの類いであり、その程度が近代化の達成にすぎない。それでいいと自分は考えるが、そこで袂を分かつことになる。徹底した近代化が必要だという立場にあくまでも立つのがエリートであろう。その意味で、最初から落ちこぼれていたのだ。

 

徹底的に近代化する方向性が正しいのだとは分かっている。抽象論理で押し切るのが正しいとも分かっている。しかし、自分にはできない。できていたら、巨額の報酬が与えられただろう。それしか日本を改造することはできないのだから。日本が日本のママでいれば、ガラクタの中で眠りについてしまう。それに、本音は、アメリカ流論理の方が自分に向いているという事実もある。つまり、問題は心情なのだ。

 

問題を棚上げしたのだ。何も解決はしていない。解決しない問題だから、戦前、戦後の文化人はテーマにしてきたわけで、知的衰弱としか現状は言えない。それは、「食えるようになったから」「ガラクタにまみれても幸せだから」に過ぎない。まやかしだ。そのまやかしで騙されましょう、それだけのことだ。