補足(高校生のための哲学入門)

明確じゃないね、何言いたいかわからないと言われるところ、簡潔に表現すると、

 

理性はコンピューターではなかった。

 

これが、哲学史上最大級の20世紀の発見だった。

 

でなければ、古色蒼然たる神学の影響が濃い時代の古文書を未だに読む必要などカケラもない。

 

経緯があって、コンピュータの基本概念は、数学者が哲学者の論理学から受け継いで1930年代に完成させたもので、オートマトンの理論が最初の定式化である。

 

付随してわかったことは、言語は論理学ではない、ということだった。証明は誰も聞きたくないので省くけれど、言語は論理学的には矛盾律を含むもので、ぬえ的な生命力が備わっているとわかった。

 

つまり、理性が神学から独立して100年経って、それが論理学で表されると誰もが思っていたら、違った。この発見は、哲学の側からは、フッサールが先行した。定式化は数学者たちによって行われたが。

 

理性は論理的ではないのだ。循環的なのだ。それがわかってから、アメリカ哲学という変な分派を除いて、大迷走を繰り広げることになる。切り捨てた18世紀の難題が、目の前に横たわっている。

 

コンピュータは作れた。プログラムもできた。しかし、それは人間の理性ではなかった。スキャンダルである。

 

人文系は、論理学モデルで、経済学が先行して超高度な抽象化を達成していたが、あまり意味がないとわかってしまった。抽象化すれば、いいというものではない、循環的に自分を規定するような仕組みを作らねばならない。

 

人文学において、アメリカ人とオランダ人を除いて、複雑怪奇な理論ができては捨てられていった。そしてバズったりして、大迷走であった。論理学モデルはアリストテレスまで遡る。それが無効になったからだ。

 

ブルデューがフランス人らしく、habitusというラテン語の助動詞で表現したのが、態度という曖昧な概念であった。曖昧にしか表現不能になったのだ。